養生アトリエREIの思い

”生きる”を養うを、考える。

 

 

 

 

 

 

養生とは、

”生きる”を養うこと だそうで。

 

 

実は私がこのことを知ったのは、

漢方の学校での最初の授業のとき。

 

 

「ああ、そういうこと!」

…と、バカみたいに

腑に落ちたことを覚えています。

 

 

養生を学びたくて

通学を始めたのですから

そんなこと既にに知っていそうなのに、

思いっきり「養・生」って書いてあるのに、

全く気付かなかったという。

 

 

何ともお粗末なお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漢方の学校の教科書

”漢方基礎講座”によると、

 

養生とは、

生活に留意して

出来るだけ病気にならないようにする。

 

摂生により

生命力=自然治癒力を高めてゆこう

という考え方が、

漢方では最も重要とされる部分

 

…とも書かれています。

 

 

では、

養生とは

”摂生のためのHOW TO”なのか?

 

 

こう定義づけされると

違和感を感じる方は

多いのではないでしょうか?

 

 

個人的には

「養生とは?」と問いを立てた人の数だけ

答えがあるように思います。

 

 

少なくとも私個人は

自分の言葉で

明確に言語化出来ていません。

 

 

なぜなら、

 

”生きる”を養う。

 

…これ以上に

腑に落ちるものが無かったもので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の中に”生きる”を養うを持つ。

これって

捉えどころのなく

曖昧な感じがしますが、

個人的には

”生きる基準や物差しを養っている”

感覚があります。

 

 

何気なく「こうしましょう」と

提案・推奨されているものは、

古代中国の自然哲学に則っているもので、

この基準があれば

自分の過不足のようなズレを

自身で調整することが出来る。

 

 

…そういった

便利な物差しを養うイメージです。

 

 

 

もしこれが、

1人1人の中にしっかりとあったら。

家族や共に暮らす人々のために、

食事を作ったり注意を促す立場の人の中に

存在していたら。

その個人や集団には

日々、

”生きる”が蓄積されてゆくのではないか?

…そんな風に思ってもいるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば家族の中に

そういう人が1人いて、

日々”生きる”が積み重ねられていったら、

その家族にとって、

積み上がったそれが

家族の”当たり前”になる。

 

 

無意識に受け取っていたとしても、

それが家族の”当たり前”として

習慣になっていく。

 

 

これって、スゴいことで、

仮に、

家族の1人に大変なことが起こって

メンタルが弱りそうになっても、

その人は

フンばり効くかもしれない。

崩れそうになる前に、

自身で調整するかもしれない。

崩れたとしても、

自分にあった病院にたどり着くまでの

余裕が持てるかもしれない。

 

 

なぜなら、

 

自身の中に

”生きる”がたくさん

積み上がっているから。

 

(それが当たり前だから。)

 

 

私は養生に対し、

 

「自身や家族・周辺の人々を

未病や病の原因となる

ストレス・ネガティブなものから守るもの」

 

「災難にあっても

しなやかに立ち上がることが出来る

価値基準・お守りのような物差し」

 

…そういったイメージを持っているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”当たり前”の興味深いところは、

敢えて口に出す必要がないくらい

分かり切っている…と、捉えているところ。

疑いもなく既に選んでいるところです。

 

 

”当たり前”なんて人それぞれ違うのに、

受け取っていただけで

迷うことなく

”生きる”を選ぶ可能性があるなんて、

…スゴいと思いませんか。

 

 

たとえ離れて暮らしていても、

積もり積もった”生きる”は、

家族を守り続けるのではないでしょうか。

 

 

…そう考えると、

やっぱり”生きる”は

時間をかけてでも養いたい。

 

 

自分自身と

大事な誰かを守るために。

 

 

 

 

 

2021年4月某日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春の陽気に誘われて。